子供たちが危ない!(西京区の真塾より)

2020/01/17 ブログ

~西京区洛西の真塾より~

 最近の片寄った教育には本当に不安を覚える。速く答を出すことに大きなウエイトを置き、人間を単なる「計算機械」か漢字変換のスムーズな「ワープロ機能」にしか見ていない。なぜこのような方向に向かったのか。それには「塾産業」というものが大きな影響を及ぼしたと言える。

 昭和40年代までは、私立中学受験はまだ一部の子供だけがめざし、塾の数もそれ程多くはなかった。しかし、高度成長期にますます「塾産業」が伸びると考えた人たちが教育に対する理想も無しに、塾をあちこちで始めてしまった。そしてそれには大きく分けて2つの流れがある。

 

[1つの流れ]

想像力」というものは教えたからといってすぐに身につくものではない。教えてすぐに結果が目にみえるものでないと「商売」としては成り立たないと判断した人たちは、教える者の技量に関係なく訓練だけで結果に結びつく「計算力」や「漢字力」に白羽の矢を立てた。そしてそれまでの「そろばん」に代わっての習い事感覚で小学生の低学年をターゲットにした。

 

[もう1つの流れ]

塾はもうかる、特に受験生を扱うと宣伝がしやすいと考えた人たちは、そちらに向かった。ただし、根本的に必要な「力」は一朝一夕ではつかないため、とにかく多くの問題をやらせ、知識を増やすことに重点を置いた。もともと記憶や理解の速い子を集めれば、こんなやり方でも結果は望める。その子たちが受験に成功したという話を聞いて、だれもかれもがそれでは「うちの子も」と塾にやる。それが現在の塾乱立時代を産み、通塾率を高めてしまった原因のように思える。

 

⇒「計算力」や「漢字力」は昔から最低限身につけたい能力とされてきた。しかし、それがすべてではないのだ。ましてや、コンピューターやスマホが発達した現在、本当に必要とされるのは機械が持っていない能力、すなわち創造力・応用力・問題発見能力など、これらを伸ばすことが本当の人間教育だと断言できる。ただ点数を上げることだけに目を奪われると本質を見失ってしまう。次の時代を託す人を育てること、それが教育で、教える者の都合に合わせるものではない。

 マスコミにも取り上げられていたが、最近の大卒生は企業に入っても使い物にならない人が目立つという。知識は多いが創造力がない。プライドだけ高く、他人の痛みがわからない。人に言われたことしかできず、自分で考えようとしない。「点数競争」に勝った子供の行く末がこれだ。

また、この競争に巻き込まれただけの子供たちは、その場限りの点数を上げただけで終わったり、ひどい場合は自分に対する自信を失い、何事に対しても前向きに取り組むことを避ける人になってしまう。

近道をして点数を10点上げることよりも、少々時間はかかっても、もっと丁寧に「人育て」を考え直すときが来ていると思う。